瞬間最大稚拙

うだつの上がらない人のための就職活動日誌

「良き社会人像」

 

 社会と人ってどうなっているのだろうか〜供給編

yuiga-k.hatenablog.com

 

「社会とは」「人とは」ということをもやもや考えながら経済学部の学部生としてネットサーフィンをして過ごしている。そしてこの記事を読んだ瞬間、「あ、これかもしれない」と感動したのを覚えている。社会全体の利をとらえながらも考え方はシンプルで、全体最適という感じが好きだ。もちろん産業自体の成長率の違いとか、人員の需要と供給の話に一切触れていないだとか、突っ込むところはあるけれど。少なくとも私はこの記事を通して、自分が就職する意味や社会に出て働く意味が少し見えてきたように思う。みなさんぜひ読んでみてほしい。

 

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記事の中の表をお借りした。この表は産業別の一人当たりGDP(=生産性)が高い順に上から並べたものだ。これに示されている生産性の高い産業4つの産業(不動産、インフラ、金融・保険、情報通信業)には共通する特徴がある。

 

ヒト以外にいかに稼がせるか

会社の経営資源は「ヒト、モノ、カネ、情報」であると言われている。そして生産性の高い産業ほど、ヒト以外の経営資源がうまく利益を稼ぐ仕組みが出来上がっている。人が自分の力で畑を耕すよりも、機械が耕した方が効率的。生産性という側面から見れば人をたくさん使うサービス業よりも設備がたくさん働いてくれる製造業の方がいい、というある意味当たり前のことがきちんと数字として現れている。

 

①インフラ、ストック型(モノが稼ぐ)ビジネス

→インフラ、情報通信

これらの特徴は「みんなの生活必需品」かつ「機械やテクノロジーが売上の多くを持ってきてくれる」ところにある。電力会社はタービンや発電機が人の代わりに電気を作ってくれるし、NTT等通信を担う会社は通信設備や電波塔が稼いでくれる。モノは文句も言わず24時間働いてくれる、優秀な経営資源だ。インフラを担う会社が福利厚生の整ったホワイト企業であることが多いのは、常時の際には多くの人が働かなくても十分に稼げる設備と技術がすでに整っているからだ。

レバレッジが効く(カネが稼ぐ)ビジネス

→不動産、金融・保険

レバレッジとはてこのことだ。てこの原理を使うと小さな力で重いものを動かしたりできることから、少ない労力で多くのお金を稼げることを「レバレッジが効く」という言い方をする。例えばある人の年収が200万円から400万円に上がるときと、400万円から800万円に上がるときでは、一般的には後者の方が大変だし、時間もかかる。けれど株式投資や不動産投資など投資の場面では、投資する金額の額を変えるだけで、二倍三倍のお金を同じ労力で稼ぐことができる。

 

このように、一般的にはヒト以外の経営資源をうまく利用している産業ほど、生産性が高くなっている。反対に「ヒトが資本」であるサービス業は、マニュアル化やルールの徹底によって属人的な業務を排して効率性を保ち、人事施策等でモチベーションを管理することによってヒトをよく働かせようとする。だが「ヒト」は感情があるから文句も言うし、体調も日によって違う。「モノやカネ」に比べるとマネジメントコストもかかるし、不確実性が大きい経営資源だ。だからサービス業は、不動産業やインフラ等に比べると生産性が低くなる傾向にある。

 

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人のモチベーションを上げている例

社会と人ってどうなっているのだろうか〜需要はサービス業に流れる

先ほどまでの話はいかに効率よく(ヒト以外の力を使って)お金を稼ぐか、という供給側の話だ。しかしどんなに効率よくお金を稼ぐ仕組みが整っていても、お金を払ってくれる消費者(こちらもまた人だ)がいなければビジネスとして成り立たない。取引は需要と供給の二つが噛み合って初めて発生するからだ。そして需要というのは往往にして「人の気分」によるところが大きい。効率も生産性も関係ない。

たとえば、若い人たちの流行りに限って言えば、今の気分は「インスタ映え」だろうか。産業でいうとエンターテインメント産業に入るだろう。若者の「インスタ映えしたい」という思いを叶えるビジネスは、大量の設備投資やレバレッジを効かせることによって効率化をはかる、という方向性に傾きづらい。むしろその瞬間を切り取って素晴らしいものに見せる一回性の演出や、一人一人の感性に合わせた個別対応が求められる。業態としてはサービス業に近くなるだろう。若者のインスタ映えに限らず、人々の需要は「画一的なもの、効率的なもの、みんな持っているもの」ではなく「人と違うもの、一回だけのもの、私らしいもの」に流れていっている。そしてそれらの需要は、機械やお金という経営資源だけで満たすことが難しい。ヒトが顧客一人一人の要望を聴きながら、個別対応をすることによって、お金を稼がなければならないのだ。

 

人々の需要とそれに伴う産業別の労働人口の割合(=ヒトの供給の割合)は、経済成長とともに第一次産業である農業から第二次産業である製造業へ、そして製造業から第三次産業であるサービス業へと移っていく。これは世界共通の流れだ。そして人の欲望に思いをはせれば、このように需要が流れていくのも納得がいく。食べ物にありつくのにやっとな生活なら、人々は腹を満たすために食べ物を、すなわち第一次産業を求めるだろう(生理的欲求)。食が満たされたなら衣服を、その次は家を求め、安全な暮らしを守るための警察や、安価で病院に行くための社会保障を求めていく(安全欲求)。そしてコミュニティーを家族や地域、そして会社に求め(社会的欲求)、それらが満たされたらもっとみんなに自慢できる車を電化製品を、という風に第二次産業を求める方向にシフトする(尊厳欲求)。そしてみんなが車を持ち、電化製品を持ち、モノでは尊厳を差別化出来なくなったとき、人々の需要は「コト」、すなわち一回性や個別対応が重視される第三次産業へと移行する。

 

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http://www.motivation-up.com/motivation/maslow.htmlからお借りしました。みんな大好きマズロー…)

 

経営資源としてのヒト=消費者としての人

ビジネスというフィールドの中で、人は二つの役割をもつ。一つは供給側、経営資源としてお金を稼いでくる「ヒト」、そしてもう一つは需要側、消費者としてお金を払ってくれる「人」。そこで見落としがちなのが、私たち人一人が持てるカラダの数は一つだけ、ということだ。私たちの体は一つしかないし、脳も一つしかない。気質だって基本的には一つだろう。しかし多くの人たちは一人二役を演じる責務を負っている。出社するとともに経営資源としてのヒトという役割を演じ、「売上の創出と効率化」をミッションに1日8時間以上働く。退社後や休みの日には消費者としての人を演じ、各々の欲望に基づいて時間やお金を消費している。

消費者としての人の振る舞い方に正解はない。みんな各々の「気分」があり、各々の勝手気ままな目的がある。そしてその欲望を満たすために行動する。100人いれば100通りの気分があり、目的がある。誰の気分が正しい(良い)気分で誰の気分が間違っている(悪い)というものではない。貴賎もない。一方経営資源としてのヒトの振る舞い方には、ある程度正解が存在する。なぜならヒトは「売上の創出と効率化」という明確な目的で会社から購入された経営資源からだ。なるべく売上を多くあげよう、なるべく効率をあげようと努力をすると、人の振る舞いはどれも似たようなものになるし、経営資源としてのヒトにとってはその振る舞い方が正解(=一番売上をあげられるor効率的)になる。

 

そうはいっても私はまだ正社員として働いたことないのであまりおおきいことは言えない…。いわゆる「良き社会人として振る舞うとは」という問いの答えを学生にも分かりやすく説明してくれるブログがはてなにはたくさんあると思う。現実は自分の目で確かめてみないと、とも思いつつ。

fnoithunder.hatenablog.com

 

syakkin-dama.hatenablog.com

「良き社会人として振る舞う」とは、経済的には合理的経済主体として無謬であること、組織的には会社という部族の文化と風習を尊重すること、ということで今のところ落ち着いている(私の中では)。

 

朝早く出社して一日8時間×5日働き、身なりを綺麗にして、組織にあるルールに従いつつもその範囲の中で主体的に仕事を行って成果を上げ、会社にとって不利益になりそうなリスクは全力で避け、時に多少の無理は承知で人をまとめ上げ、会社のミッションには共感を示し、明文化されていないコミュニケーションのルールに目を光らせ、相手の顔を立てつつお伺いを立てる。

 

私が想像する「良き社会人の振る舞い」のイメージだ。

そして思うのは、人にこれ以上「良き社会人」として振る舞うことを求めるのはもう限界なのではないかということである。一人一人の多様な気質と人生に対して、経営資源としてのヒトにとって最適な振る舞い、「良き社会人」として求められる振る舞いを無理やり当てはめようとするのはもうそろそろ無理があるような気がする。

なぜ私は就職するのか〜「良き社会人」の多様性のなさ

昨今話題の働き方改革や多様な働き方の推進とは、先ほど言った「良き社会人の振る舞い」の枠から時間だけ取り出して解放しよう、という取り組みだ。もちろんそれは素晴らしいことだと思うし、どんどん推進して欲しい。しかしその本質は未だ「(本当は良き社会人として一日8時間以上働いて欲しいけれど)一日○時間でも成果をきちんと出してくれれば大丈夫!」という例外措置的な対応にとどまっているように思う。それは本当の意味で「多様な働き方を認める」ことになっているのだろうか。

そして「良き社会人像」が縛るのは、時間だけではない。コミュニケーションや場所、行動、価値観をも拘束している。このような「良き社会人像」のハードルを少しでも低くし、みんなが本当の意味で(例外措置として処理するのではなく)時間、コミュニケーション、場所、行動、価値観の多様性を認めながら成果を出せるような社会を作りたいなあ、そのために働きたいなあと思ったりする。

就職したい

そうはいっても社会ではきちんと成果を出していない人の話なんて聞いてもらえないし、面接で「良き社会人になりそうなやつ」だと思われないと就職ができないので頑張るぞの気持ちを強く持とうと思う。