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瞬間最大稚拙

エモーションレスというあり方もアリなはずなんだ

内々定をいただいて~対自己共感能力の話~

今日、内々定をいただいた。

少し喜んで、「ありがとうございます」と言い、そのあと、気持ちがスッと冷めていったのが分かった。

決して志望度が低い会社だったわけではない。

こういうとき、もっと喜ぶもんだろう普通、と自分にツッコミを入れながら、

「やはり自分は人生のどこかで、大きな感情を置いてきてしまったんだろうなあ」とぼんやり思ったりした。

 

「もっと感情を表に出せ」と人から言われたこともある。

私はその言葉のとおり感情を出そうと努力した。

否、自分の意図した感情が相手に伝わるように努力した。

「嬉しいから笑うんじゃない、笑うから嬉しいんだ」という言葉を聞いたことがあったから。

体が笑えば、自然と心も嬉しくなると期待したのだ。

しかしいくら外面をととのえ喜びを演出しても、中身が空っぽなら虚しいだけだった。

 

自分がからっぽだと気づかされたときはいつも、「なにかに熱中したい」と焦がれる。

あるのかないのかも分からない自分の「熱」を追い求めて焦る。

夢や希望、志といった「熱量を持ったなにか」を必死に体になじませてみる。

 

分かってほしいなあ、と思うこともある。

「表現しなきゃ人には伝わらないよ」と誰かが言う。

しかし、表現しようとしたら、いつのまにかそれは別のものになっている。

自分にもいつか、「さみしい、さみしい、分かってほしい」と言いながらわんわん泣ける日が来るのだろうか。

 

……けものフレンズの最終話ではボロボロ泣くくせにな!!!

 

なんなんだろう、あれは。オープニングとともに今までの話で出てきたフレンズが全員集合、仲間を助けるために戦うシーンで涙がダバーーっとこぼれてきた。「ああああああああみんなああっっっっっ!!!ナミダダバー」だ。

 

おそらく私はけものフレンズには共感し、感動し、涙を流すことができるが、自分の感情にはとことん共感できない人間」なのかもしれない。

 

例①

本当の私「やっほおおおめっちゃたのしいいいいい」

メタ私「いやこれがたのしいって普通に考えてありえんくない? キチガイなの?」

→アウトプット私「わー…、うれしいなあ…?(無表情)」

 

例②

本当の私「あああああああめっちゃむかつくわああああああ」

メタ私「いやでも怒っても事態が解決するわけじゃないし意味なくない? 落ち着け」

→アウトプット私「あー、はい」

 

メタ私は、全然私に寄り添ってくれない。共感してくれない。けもフレには共感するくせに。

だから私は「なにかに熱中しているとき」が一番素直に自分の心を開ける。

なぜならなにかに熱中しているとき私は「無我」であり、無我の中なら「メタ私」は存在することもできず、私は「メタ私」から解放され自分を自由に表現することができるからだ。

そう考えると、感情の豊かさと依存体質になりやすさは負の相関関係があるかもしれない。

 

自分を褒めることは、かくも難しい。