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瞬間最大稚拙

エモーションレスというあり方もアリなはずなんだ

温度の低い文章と未来の自分に媚を売ることについて

温度の低い文章が好きだ。

 

小川洋子さんや川端康成とかの小説は、私にとってちょうどいい温度。完璧に伝えようとすることは、相手に完璧な理解を要請することと同じなんだろう。謎は謎のままで良いときもある。完璧の、ちょっと下がちょうどいいと、糸井重里さんも言っていたような気がする。(たぶん意図するところは違う)

綿矢りさとか三浦しをんとかはすこし熱い。ここまでの熱量の感情がうずまいているのって、どんな感じなんだろうと思う。

若い女の子の文章は、発熱電球のごとき熱。自意識の極彩色。殴られたように眩暈がして、その後に崇拝と嫉妬が入り混じる。彼女たちが求めているものは文章ではないのかもしれない、と皮肉を吐く。他人の心は推し量ることはできないけれど。

若い男の子の文章は、ものづくりに似ている。熱量は色々だけど、人間に向かっていない。だからその熱は私を焼きつくさない。まるで変わったデコレーションを施された安全な橋を渡るよう。

翻訳された文章、たぶんあれ、お酒が入っている。フランべだ。翻訳前の言語で読んだら、どんな感じがしたんだろうな。言語の壁、というより、文化の壁。その国で名著とされた小説の美学を、理解できない悲しさ。

 

体言止めの多用は退屈。どんな風に響くかを知っている。

 

私の文章について。

もうすこし温度をあげていきたい。文章なのに「無表情で何を考えてるかちょっとよく分からないですね」と言われそうな感じがすごい。傍観するのは好きだけど踊る阿呆と見る阿呆がいるなら私は見る阿呆なほう。遠目から見ているのは監視カメラでバレており、ヲチっても検索履歴とIPアドレスとあと何?クッキー?でとにかく身バレする。とにかく神さま仏さま他者さまはお見通しな訳だ。まあ他者からの視線よりも自分からの視線にびびっているのだけど。

自分の人生に愛着を持ちすぎた。自分の人生に愛着を持つということは、過去の自分を否定できないということだ。過去の自分を正当化するための証拠探しで今を食いつぶすのは馬鹿のやることで、過去の自分には「あのころの自分は馬鹿だなあアッハッハア」と寛容さと愛情と少しの侮蔑という名のスパイスをもって接するのが正解だ。

ああ、「あの頃の僕がいたから今の僕がある」という言葉はなんて肯定的な響きを持って我々の心にせまってくるのだろうか! 事実は「人生にはオートセーブ機能がついている」というだけ。「あの頃の僕がいたから今の僕がある」と「ミスッても電源をブチッてもう一回やり直すのは不可」はどっちも真で、「あの頃の僕がいなかったとしても今の僕がいるかどうか」という問いにこたえられる人は誰もいない。

別に愛すのが悪いとは思っていない。存在できなかった僕の過去より、存在が確定してしまった僕の過去を愛でるのが道理だし、それが正しい。(未来の自分にさえ愛されなかったら、いったいだれが彼女のことを愛してやれるんだろう。)この世界に存在できなかった過去は、どこかの世界で別の僕が頑張って愛を注いでいるんじゃないかと慰めることもできるわけだし。

 

今の自分がすべきことは、未来の自分に侮蔑をもって愛されるのを承知で今をもがくことだ。いや、たぶんいつだってそうなんだけど。

うん。そんな感じだ。認知的不協和とか生存バイアスから逃れた未来の自分を仮定して、その自分が「まあまあじゃん?」といいながら笑ってくれる道がいいんじゃないか。どんなに変わりたいと思っても性根はそんなに変わらないみたいだし。