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瞬間最大稚拙

エモーションレスというあり方もアリなはずなんだ

未と否と無と不の触感のちがいについて(その1)

未と否と無と不は、どれも漢字の上について打消しの意味を持つ。

未定、否決、無職、不定、などなど。探せばいろいろある。

 

しかし同じ打消しでも、未と否と無と不では使ったとき、聞いたときの触感がちがう。

もちろん漢字にもともと備わっている意味のちがいもあるのだろうけれど、

それ以上の意味や背景を持って自分に迫ってくる。

 

これらのことばの触感のちがいに、人はどれくらい敏感なのだろうか。

 

 

 

まず「未」。

未には「今はそうではないけれども、いずれそうなる」というニュアンスが含まれる。

いずれそうなる、という将来へのポジティブな触感が感じられる。

 

「未定」と言えば、「今は定まっていないけれども、いずれ決まるだろう」という楽観的な気持ちが裏打ちされたことばのように響く。

「未来と」書けば、前に「明るい」という言葉が枕詞に入るくらいだ。

子どもの名前に「未」という字が入ることがあるくらい、「未」という字は、他の打消しの意味を持つ漢字に比べてネガティブさがない。

 

しかし同時に、「未」という字には、ポジティブさの裏で覆い隠そうとした欺瞞や、責任の回避、問題を見て見ぬふりをするような不真面目さがにじんでいるように感じるのは、私だけだろうか。

 

そして私は「未」を使うときに、何も気にせず明るくふるまうことを自分自身に強いているような、そんな息苦しさと後ろ暗さを感じる。

 

 

 

次に「否」。

否には「本来そうあるべき、そうなっているのが良いと思われている状態から外れている」というニュアンスが含まれている。

侮蔑、拒絶、不信感、敵対といったイメージが想起されることばである。

 

そして否を使うとき、そこには必ず思想が入り込む。

 

「否」と叫ぶだけで、「僕はちがう!そして僕は正しい!」という意思表示になる。

我のつよい孤独者は否を外へ外へ、まき散らしながら歩く。

彼が歩いたあとの道には、彼が切り捨てた者たちが転がっている。

 

 

 

そして「無」。

無には「ただ、備わっていない」というニュアンスが含まれる。

ぽっかりと穴があいているイメージだろうか。

無には「否」とちがって、そこには誰かを虐げるような印象はない。

 

「せっかく楽しませてくれているのに無表情は良くないよ」

「無反応は失礼だよ」

「じゃあ今無職なんだ、たいへんだね」

 

どれも言った相手を非難したり、憐れんだりしたことばであるが、

「無表情」「無表情」「無職」じたいを否定してはいない。

これじたいに良いも悪いもないのだ。

 

「無」には意味解釈をしない。させない。

だから良いも悪いもない、ポジもネガもない。

そして受け入れることもしないかわりに拒絶もしない。

 

 

 

さいごに「不」。

不は「本来定まっているべきものが、定まっていてほしいものが、定まっていない」というニュアンスが含まれている。

見てみれば「不」という字面も、一本足で立っている案山子のようなどこかこころもとない、危ういバランスを保った字である。

冬の夜、真っ黒な海の波がよせて、返すイメージ。

「揺蕩う」「猶予う」ということばがふと想起される。

 

「(ほんとうは安定していたいのに)不安だ」

「(定住したいけど)住所不定だ」

 

「不」は「否」と同様に「良い/悪い」「正しい/正しくない」という意味解釈が入り込んでくる。

しかし「不」は「否」のように、怒りとともに自分を、そして他人もを燃えつくさせたりはしない。

そこに漂うのは、静かな諦念である。

自分の心が、体が大きい波にさらわれつづけることを暗く受け入れる。

終わるのか終わらないのかもわからないまま、もがき続ける運命を仕方なく選んでいる。

 

長いですが続きます。