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夢をかきむしる

決めるのが苦手です

マインド面の就活準備にはFacebookを使え

就活中に感じた言葉の違和感がある。

 

その違和感を端的に表すと「おんなじ日本語を話してはいるけれど、会話が通じないような違和感だ。まさか文化圏がちがうのか?」というものである。

 

今回はその違和感の正体と、就活に苦労する私のような学生がどうやってこの違和感を払しょくしスムーズに「就職語」を身につけられるかについて考えた。

 

その結果、違和感の正体は「論理展開のポジ/ネガ」という要素と「感性/論理」という要素のずれが原因であり、違う言語圏の人も「Facebook語圏」にどっぷり染まることによってスムーズに「就活語圏」の適応がしやすくなるのではないか、という結論に至った。

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以下の図は各々のSNSにおいて、「どのような発言が評価されやすいか(いいねや❤、ブックマーク、スターなどがつきやすいか)」をざっくりグラフにしたものである。

 

 

 

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上段の「インスタグラム」「Facebook」「就活」を「ポジ語族」とする。

この語族では、文章がポジティブであるほど評価されやすい。

いっぽうで「見栄」「リア充アピ」といったイメージもあり、表面上だけ綺麗にみせているという見え方もできるだろう。

 

下段の「Twitter」「はてな」「政治経済を語る人」を「ネガ語族」とする。

ネガ語族では「本音」「あけすけ」な文章が評価される。

しかしそのような言葉は概して他人を傷つけたり、批判したりといったネガティブなものになりがちだ。

 

 

左に行けば行くほど感性的に評価され、右に行けば行くほど論理が通っているかどうかで評価されるが、その語族内においてはある語圏の文章の評価に納得できない、ということはほぼない。

 

 

たとえばtwitterで評価されている文章は、はてなの人が読んでもそれなりにいい評価をくだすだろうし、

Facebookでいいねがたくさんつくユーザーのインスタグラムは、やはりそれなりにいいねがつくのではないだろうか。

 

 

しかしポジ語族とネガ語族では、その間に決定的な壁がある。

とくにネガ語族にとっては、ポジ語族の言語はだいぶトんでいる、と感じる。

具体的には、集団面接などでデキルヤツの受け答えを聞きながら「なんだコイツ、意識高い系ポジティブマシーンか?」と驚愕する。

会話が通じないような違和感を覚えるのだ。

 

しかし、彼らは機械などではなく、ポジ語族論理系就活語を流暢に使いこなしているにすぎないのである。

 

 

そう、就活語圏は「ポジ語族」に入る。

英語圏で日本語で話しても意志疎通が出来ないように、どんなに「ネガ語族」にとって完璧な文章をつくっても、就活では評価されないのである。

すなわちどんなに本音で、どんなにあけすけで、誠実で、真摯で、自分にとって切実な「本当の」叫びだったとしても、面接官には通じない、ということだ。

 

 

 

そして「ネガ語族」の人間が就活で勝つためには「ポジ語族」の言語を学ぶ必要がある。

「自分はネガ語族の住人だ」と思う就活生、Facebookのアカウントを今すぐ作れ!

 

勇気を出してみずから友達になるボタンを押し、ポジティブな投稿には積極的にいいね!を押し、自分の近況を写真とともに報告しポジティブな一言を添え、たいして仲良くない人にも誕生日の日にはコメントをつけてあげよう。

 

 

苦労しながらFacebook語圏に染まり、Facebookでそれなりに意志疎通ができるようになったとき。

君は就活でもそれなりにやっていくマインドが、身についているに違いない。

 

 

 

暇な女子大生のツイートの反応に見る棒と穴の非対称性について

※あまり品がない内容なので苦手な方はご注意を!

 

 

 

暇な女子大生というツイッターアカウントがある。

twitter.com

 

この人のツイートで興味深い話があった。

 

私に対する批判は多数あるが、「男性をちんぽと呼ぶのは男性蔑視だ」というお叱りの声がないのは興味深い。逆に男性が女性のことをまんこ呼びしたらフェミニストが暴れるはず。だけどもしかしたら男性は私に繰り返しちんぽ呼ばわりされて心を痛めているのかもしれない。だったら申し訳ない。謝ります。(2017年2月21日)

 

なぜ女はまんこと呼ばれて怒り、男はちんぽと呼ばれても怒らないのか。

今回はこの点について考えたいと思う。

 

 

可能性①ちんぽへの自尊心高め説

~男の多くは自分のちんぽが好きで、女の多くは自分のまんこが嫌いだから~

 

おおいにありそうだ。

男性の多くは自分の男性器を慈しみ、かわいがり、誇りを持つ傾向にあると思われる。

男性は自慰を行うときに自分の男性器に触れ、目で視ることが出来る。

また自慰の回数も、平均すれば女性の自慰の回数より多いだろう。

目に触れる回数が多い、触れる回数が多いとなると、やはり男性は自分の男性器に親しみを持ちやすいのではないか。

 

いっぽう女性器は、女性にとってはなかなか見る機会がない場所だ。

人によっては触る機会がない人もいるだろう。

つまり多くの女性にとって、女性器は見ることもなければ触ることもすくない、なんだかよく分からないものである。

さらに見た目もグロテスクな部分があるので、親しみが持てなかったり、嫌悪感を抱く人が多いのではないか。

 

すなわち男性にとって男性器はポジティブな印象を持ちやすく、

女性にとって女性器はネガティブな印象を持ちやすい傾向にある。

それゆえ異性に性器を揶揄されたとき、男性は怒らないが女性は抗議することが多いのではないか、という可能性が考えられる。

 

 

可能性②ちんぽ揶揄無関心説

~男性は自他のちんぽを区別しているが、女性は自他の区別をしないから~

 

別の可能性も考えてみる。

可能性①でも述べた通り、男性は自分の男性器に触れたり、目で見たりする機会が女性に比べて多い。

また男性の会話は性に開放的であり、他人の男性器の情報に触れる機会が女性に比べて多いと考えられる。(例えば大きさなど)

 

その中で男性は、「自分の男性器とあいつの男性器は違うのだ」という意識を形成しやすく、結果自分の男性器にアイデンティティを持ちやすいのではないか。

すなわち男性にとって男性器とは、ひとりひとりみんなちがってみんないい元々特別なオンリーワンちんぽなのではないだろうか。

だから男性器全般について揶揄されても、「俺の話ではないだろう」と他人ごとに感じられる、ということが考えられる。

 

この説において、男性における「男性器」は女性における「顔」と似ている。

女性は美容の話を共有する傾向にあり、また自分の顔をケアしたりメイクしたりする。

その中で女性は、男性における男性器と同様に、自分の顔にアイデンティティを持ちやすいと考えられる。

「私はあの子より鼻は低いけれど目は大きい、この子よりは…」といった自他の区別をする土壌がもうそこにある。

 

そのような状況で、例えば「女の顔ってむかつくわ~」といった女の顔全般を批判されても傷つく女性はあまりいないのではないだろうか。

なぜなら多くの女性は、「女の顔といってもひとぞれぞれ」ということを知っているからである。

 

しかし話が女性器となると、事情が変わってくる。

先ほども言った通り、女性は男性に比べ、自分の女性器を見る機会も、触る機会も少ない。

またそれゆえに、女性同士でお互いの女性器の形状の話をすることもほとんどないだろう。

 

自分の女性器について知らない、他人の女性器もよく分からない。

そのような状況だと、「女性器ってよく分からないけれど、どの人のもそんなに大きく変わらないのではないだろうか?」と女性が考えるのも自然な流れではないだろうか。

 

つまり、男性器とは対照的に、女性たちは各々の女性器にアイデンティティを感じておらず、「みんな似たようなものだろう」と思う傾向にあると予想できる。

 

そうなると、いざ女性器を揶揄されたとき、女性たちは他人事だと思うことができず、自分事として受け止めてしまう。

結果自分が非難されていると感じて、抗議があったり炎上したり、といったことが起こるのではないだろうか。

 

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以上が「なぜ女はまんこと呼ばれて怒り、男はちんぽと呼ばれても怒らないのか」について私が考えたことだ。

 

他にも

男女平等の観点からみて棒と穴は平等であるべきか、それはどうやって達成されるか

女性器活用による経済活動の意義と問題点

 

といった、くだらないような、くだらなくないようなことも考えたりするが、

たぶんこのトピックでブログ記事を書くことはないだろう。笑

社会適応プロセスについて

 

NASAが先日、海が地表に存在する地球に似た惑星を発見した。

 

www.nikkei.com

水があるということは、生命体が存在する可能性があるということ。

39光年先のどこかに、私たちのような生き物がいるのかもしれない。

とてもわくわくするニュースだと思う。

 

 

私はこのニュースを見たときに、すこし泣きそうになった。

「宇宙って広い、自分が悩んでいることはこの宇宙に比べたらすごくちっぽけなことなんだ」

そう思って涙が出そうになった。

宇宙に思いをはせることで、ちっぽけな自分が救われたような気がした。

こっぱずかしいポエムもどきの拙い感情だが、本当にそう思った。

 

しかし、この感情は単なる現実逃避だ。

 

少しこの感情を解体したいと思う。

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私は自分の周りのコミュニケーションの問題について悩んでいる。

 

なぜ私は人と比べてうまくいかないのか、なぜ自分勝手な性格が治らないのか、

自分とみんなでなにが違うのか、どうして社会から認められないのか、エトセトラエトセトラ。

 

自己と社会の関係性の中で悩んでいるのである。

 

しかし、宇宙に目を向けてみよう。

 

どう始まったのかも分からない宇宙。

50億年後という果てしなく遠い未来に必ず地球は滅亡し、

39光年というとてつもない距離の先には地球外生命体の可能性がある。

 

社会というスケールにはとてもおさまらない時間、距離にある「なにか」。

 私はこんなにも社会の中で苦しんでいる。しかし一方で、宇宙には社会の外におさまらない「なにか」があるのである。

 

私が宇宙に思いをはせ、その壮大さに涙を流すのは、

「ぜったいに社会という枠の中にはおさまらない(いごこちのよさそうな)世界」がそこに広がっているからである。

すなわち、社会から逃避するためである。

 

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私はこれらの問題の根本原因を「自己と社会の分離が適切におこなわれていないから」だと結論付けた。

 

「自己と社会の適切な分離」とは、一般的な社会のルールを受け入れ、自分の存在を社会の中の一部として捉えつつも、一方で社会のルールとは異なる自分のルールを言語化し受容するプロセスのことだ。

 

簡単に自分を俯瞰してみる力、メタ認知と言いかえることも出来るかもしれない。

 

このプロセスは大きく4つの段階を経ることによって完成する。

 

  • 社会のルールと自分のルールが違うことを知る(衝突)
  •  社会のルールについて理解する。(学習と一般的な社会の視点の獲得)
  • 社会のルールに対して自分のルールがどのように違うかを言語化し、自分のルールが社会の中ではどのように評価されるかを知る。(自立と客観視の獲得)

  • 社会のルールに対する知識と獲得した客観的な視点を活かして、社会のルールと自分のルールに上手く折り合いをつけながら行動する。(自立心と協調性のある人間の爆誕)

 

とてもすばらしい定型発達者が完成しましたね。おめでとうございます。

 

 

それはそれとして、私はこれらのいずれかの段階でつまづいているため、生きづらさを感じている。

じっさいこれらのプロセスのどこかでつまづいた人間というのは、社会を生きる上で非

常にしんどいのである。

 

 

 

未と否と無と不の触感のちがいについて(その1)

未と否と無と不は、どれも漢字の上について打消しの意味を持つ。

未定、否決、無職、不定、などなど。探せばいろいろある。

 

しかし同じ打消しでも、未と否と無と不では使ったとき、聞いたときの触感がちがう。

もちろん漢字にもともと備わっている意味のちがいもあるのだろうけれど、

それ以上の意味や背景を持って自分に迫ってくる。

 

これらのことばの触感のちがいに、人はどれくらい敏感なのだろうか。

 

 

 

まず「未」。

未には「今はそうではないけれども、いずれそうなる」というニュアンスが含まれる。

いずれそうなる、という将来へのポジティブな触感が感じられる。

 

「未定」と言えば、「今は定まっていないけれども、いずれ決まるだろう」という楽観的な気持ちが裏打ちされたことばのように響く。

「未来と」書けば、前に「明るい」という言葉が枕詞に入るくらいだ。

子どもの名前に「未」という字が入ることがあるくらい、「未」という字は、他の打消しの意味を持つ漢字に比べてネガティブさがない。

 

しかし同時に、「未」という字には、ポジティブさの裏で覆い隠そうとした欺瞞や、責任の回避、問題を見て見ぬふりをするような不真面目さがにじんでいるように感じるのは、私だけだろうか。

 

そして私は「未」を使うときに、何も気にせず明るくふるまうことを自分自身に強いているような、そんな息苦しさと後ろ暗さを感じる。

 

 

 

次に「否」。

否には「本来そうあるべき、そうなっているのが良いと思われている状態から外れている」というニュアンスが含まれている。

侮蔑、拒絶、不信感、敵対といったイメージが想起されることばである。

 

そして否を使うとき、そこには必ず思想が入り込む。

 

「否」と叫ぶだけで、「僕はちがう!そして僕は正しい!」という意思表示になる。

我のつよい孤独者は否を外へ外へ、まき散らしながら歩く。

彼が歩いたあとの道には、彼が切り捨てた者たちが転がっている。

 

 

 

そして「無」。

無には「ただ、備わっていない」というニュアンスが含まれる。

ぽっかりと穴があいているイメージだろうか。

無には「否」とちがって、そこには誰かを虐げるような印象はない。

 

「せっかく楽しませてくれているのに無表情は良くないよ」

「無反応は失礼だよ」

「じゃあ今無職なんだ、たいへんだね」

 

どれも言った相手を非難したり、憐れんだりしたことばであるが、

「無表情」「無表情」「無職」じたいを否定してはいない。

これじたいに良いも悪いもないのだ。

 

「無」には意味解釈をしない。させない。

だから良いも悪いもない、ポジもネガもない。

そして受け入れることもしないかわりに拒絶もしない。

 

 

 

さいごに「不」。

不は「本来定まっているべきものが、定まっていてほしいものが、定まっていない」というニュアンスが含まれている。

見てみれば「不」という字面も、一本足で立っている案山子のようなどこかこころもとない、危ういバランスを保った字である。

冬の夜、真っ黒な海の波がよせて、返すイメージ。

「揺蕩う」「猶予う」ということばがふと想起される。

 

「(ほんとうは安定していたいのに)不安だ」

「(定住したいけど)住所不定だ」

 

「不」は「否」と同様に「良い/悪い」「正しい/正しくない」という意味解釈が入り込んでくる。

しかし「不」は「否」のように、怒りとともに自分を、そして他人もを燃えつくさせたりはしない。

そこに漂うのは、静かな諦念である。

自分の心が、体が大きい波にさらわれつづけることを暗く受け入れる。

終わるのか終わらないのかもわからないまま、もがき続ける運命を仕方なく選んでいる。

 

長いですが続きます。

 

 

不定型欲望

自分の本当の欲望がよく分からない。

他の人はどうやって自分の欲の形を定めているのか、気になっている。

 

夢想をすることがある。

 

たとえば自分が死ぬとき。

自分が死ぬならとりあえず100歳くらいまで生きて、鳥葬や宇宙葬で骨を処理してもらおう。樹木葬なんてのも良いと思う。

しめっぽい葬式はいやだから、お坊さんは呼ばずにお別れ会という形にするのもいいかもしれない。

死ぬ前に自分の弔い動画を作って、自分が死んだら流してみようか。

いっそ生前葬をしてしまって、自分の葬式をプロデュースしてしまえば。

 

そこではた、と思考が止まる。

 

「これは本当にやりたいことなのかしら」

 

ポンポンと思いつくアイデアのひとつひとつが、本当に自分のやりたいことなのか。

そう問われると、そんなことはない気がする。

 

それならば普通に弔われたいのか。

たくさんの花に囲まれ、お坊さんにお経をあげてもらい、お別れの言葉をもらい、火にかけられ、骨を拾われ、喪服を着たみんなから涙を浮かべられながら見送ってもらいたいのか。

いや別に、そういう風に死にたいわけじゃない。

 

自分の思考が自分の「やりたい」と一致している訳でもない。

でもいわゆる普通もいまいちピンと来ていない。

 

だから、自分の欲望の形がいまいち見えてこない。

 

 

自分の死に方を例に挙げたが、こういうことは自分の死に方だけではなく、色々な事柄についても起こる。

 

たとえば

どういう風に働きたいのか、

どこに住みたいのか、

結婚したいのか、

子どもはほしいのか、

自分の人生で何を成し遂げたいのか、

などなど。

 

 

人生経験が増えれば、自分の欲望の形も分かるようになるのだろうか、と思う。

 

例えばいろんな人と出会う中で尊敬する人や楽しいことをやっている人を見つけ、「私もこんなふうになりたい」「こんなことをやりたい」と思えるようになればいいのか。

(思ったところで憧れだけで終わってしまったらどうにもならないのではないか)

 

あるいは自分の経験の中から「こういう風には生きたくない」あるいは「こういう風に生きたい」と模索しながら人生を歩くのか。

(模索しているうちに人生が終わってしまいそうだ)

 

また、自ら積極的に選択をせず、目の前に起こったことを淡々と受け入れこなしていくことで一生を終えるのか。

(そんな人生に自分は意義を見いだせるのか)

 

こんなにも自由で平和なのに、なぜ選ばないのか。

 

 

湯山玲子が力をくれる

いつのまにか湯山玲子さんの著書や対談集を何冊か読んでいたのでここで感想を備忘録としてまとめたいと思います。

 

 

文化系女子という生き方

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評価…☆3

 

(感想)

私がはじめて読んだ湯山玲子さんの著作です。

大学1年生? くらいのころに読んだきり、読んでいません。

 

男と女の非対称性という現実を受け入れつつ、欲求を満たす手段としての文化を乗りこなそう、という趣旨を嫌悪感なく読み抜く余裕は当時の私にはなかったし(文化はあくまでも目的であり手段ではなかった)、

そんななかでちょくちょく出てくる「文化系女子の見本である私」という記述が鼻につき、あまり楽しく読めなかった、という印象。

 

「この人は文化が好きなのではなくて文化に精通している自分が好きなのでは?」

と思った記憶がある。 

 

以前より少し大人になった今なら読めるかもしれないので、再読しようかしらん、と思っている。

 

 

◎だって、女子だもん!!

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評価…☆4

 

(感想)

雨宮まみさんの女子をこじらせてが面白かったので、続編にあたるこの対談集を買ってみたら、その中に湯山さんとの対談があった、という話。

 

この対談は面白かったです。

 雨宮さんのやわらかい会話のおかげで湯山さんの毒気が相殺されて、読みやすかったのかな笑

「女子」というものに悩まされつづけた雨宮さんと「女子」というものを思春期の序盤でねじ伏せることに成功した湯山さん、という対比で女子を乗りこなすためのアドバイス、という感じだったので鼻につく感じはしなかった。

 

しかしこの人ほんとうに「こじらせ」の意味が分かっているのか、と思ってはいた。笑

 

 

◎四十路越え!

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評価…☆5

 

(感想)

若さという武器を失った四十路女性が、

ふたたび人生をいきいきと過ごし他人に影響を及ぼすためにはどうしたら良いか、

というテーマで書かれた本。

女性の人生の指南書でもあり、女性のためのビジネス書でもある。

自分がこれからの日本を生きるために読む必要がある本だと思いました。

 

この本の言いたいことをすごくざっくり言うと、

 

「『若さ』にたよらない自己ブランディングを徹底的にしろ(内面、外見ともに)」

「今までのモラルから解放されること=良き女性として生きることをやめること」

 

この二つでしょうか。

 

あと上の二つの著書もふくめて、

「教養を身に着けていればいい男にモテる」というようなことを何度も言っていますね。

よほどモテに執着があるんだなあ

 

 

◎男をこじらせる前に

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評価…☆5

 

(感想)

今まで女子や現代社会に向けられていた湯山さんの毒舌がついに男性に向けられた本です。笑

だからこその痛快さもあるんですが、それ以上に女の私が読んでも学ぶことがおおくありました。

「男」「女」という性差がどんどん縮まっている今、この本に書かれてある処世術のエッセンスは万人に使えるものとなるでしょう。

 

・「オネエのように生きていく」こと

社会通念に守られることを期待せず、自らの孤独を理解し、真の意味で自立すること

 

・欲望の因数分解

自分のほんとうの欲を社会通念から切り離す方法のひとつ

 

・競争から降りること(既成概念にとらわれない)

 

・ゴキゲンで生きていく

 

 

湯山玲子さん、同じクラスにいたら仲良くなれないタイプだ笑

と思いながら読んでいました。笑

尊敬できるし面白いんですけど素直に好きと言えない、そんな方です。

 

でもこれらの本を読むと、パワフルな気持ちがわいてきます。

湯山玲子さんのパワーが文章にのりうつっているからでしょう。

 

よーし、がんばろと思える本でした。

 

 

 

 

こまかいガラスの話

小学校のころ、私はものを知らないこどもだった。

校庭の砂にまじっているこまかいガラスを集めて、ダイアモンドと呼んでいた。

あれがガラスだと知ったのは、いったいいつごろだろう。

「あぶないから触っちゃいけないよ」と言われた気もする。

 

そのころは「触れてもぜんぜん痛くないのに、なにがあぶないんだろう」と考えていた。

でも、じっさいに危ない目にあったこともないのに、

素直なまわりの大人たちの声をすっかり飲みこんでいた。

「こまかいガラスはあぶない」という知識をしっかり携えて、私は大人になった。

 

いや、大人になったつもりでいた。

「こまかいガラスはあぶない」という知識はもっていたけれど、

その知識は私の頭を犯しきることはできていなくて、

私は大人になっても割れたガラスのコップを手で拾おうとして怒られる。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ということばが頭に浮かぶ。

ああ、私って愚者だなあとヘラヘラしている。

 

私は愚者で、経験によってしか学ぶことができない。

反対に言えば、経験しなければいつまでも子どもでいられる。

世間への順応とひきかえに、みずみずしい純度を保った感性を汚さないですむ気がした。

 

私よ、ガラスで手を傷つけるなかれ。

愛すべき愚者の万能感を手放したくないのだ。